教育新聞(第37号)
先生と生徒の経験・成長を妨げるブレーキは、
「道徳教育」ではないでしょうか!
人格養成のための<新・教育学>
=対話による、生徒中心の教育=
人間の性格(その3)
(5-1)ブレーキが、かかると、経験が出来ない!
(ここまでが、前号)。
(5-2)ブレーキとは、何でしょうか?
おとなの頭には
多くのブレーキがあって、
それらが、私達の経験を妨害していることを、
前号で述べました。
このブレーキは、どのようなもので出来ているか、調べて見ましょう。
*ケンカをしては、いけない。
*怒っては、いけない。
*不倫は、いけない。
*嘘をついては、いけない。
*いけない。 *いけない。 *いけない。・・・・・・
このように、ブレーキは、
禁止の形で、
すべてのおとなの中に埋め込まれています。
この禁止事項の性質は、何でしょうか?
私は、すべてが「道徳」に見えるのですが、どうでしょうか?
ここでは、仮に、
すべてが「道徳」である、
と言う判断が正しいものとして
研究を進めたいと思います。
「私は、そうは考えない」
と言う人がおられても、
それは、それで、よいのです。
しかし、その人は、
なぜ、「自分は、そう考えないのか」を、
具体的に証明する必要があるのです。
さて、本題に入りましょう。
道徳とは、何でしょうか?
(5-3)道徳とは、何でしょうか?
広辞苑を見てみましょう。
「道徳とは、
人のふみ行うべき道。
ある社会で、
その成員の社会に対する、
あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、
一般に承認されている規範の総体」
と書かれています。
とてもむずかしく書かれていますが、
やさしく言えば、
道徳とは、
人間が、「何かを、実行しよう」とする時、
どうすべきかを判断、決定するための
モノサシである』と言えるでしょう。
道徳とは、
「人間が、
今、
どうすることが、
善いことだろうか、
悪いことだろうか」を
判断する時に、
その人が使うモノサシ、判断基準です」。
道徳は、
時には、
「良心」と呼ばれることもあるようです。
「自分の良心に従って行動しなさい」
と言ったように。
結局
道徳の思考形態は、
「二者択一」のモノサシです。
道徳の答えは、
驚いた事に
{ふたつに、ひとつ}です!
{善か、悪か}。
{よい事か、悪い事か}。
{丁か、半か}で
勝負を決める博打
のように、私には見えます。
ふたつの間には、
何もメモリがありません。
非常に荒っぽく、
実状に合っていないモノサシです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その理由は、次の通りです。
私達は、
ひとり、ひとり、
異なる人間です。
たとえば、
同じ人でも、
その人の気持は、
一瞬、一瞬、
変化して行きます。
喜んだと思ったら、
次の瞬間、がっかりしたり。
また、その人を取巻いている環境、状況も、
一瞬、一瞬、
変化して行きます。
動いて行きます。
教室の気温も、空気も、気圧も、
厳密に測定すれば、 一瞬、一瞬、
変化しているはずです。
結局、
先生も、生徒も
そのまわりも、
一瞬、一瞬、
変化しているのが、
現実の世界です。
すべてが、現在進行形です。
これは、誰もが認めることが出来る事実です。
こんなに複雑な、
現実の中で、
私達は生活しているのです。
それなのに、
「今、私が、どう行動するか」を
決めようとする時に、
たった、ふたつ
「善い事」か、「悪い事」しか、
選択肢がない「道徳と言う判断基準」を
使おうとすれば、
先生と生徒の
心と
体に
年中、ブレーキがかかり、
心も
体も
思うように進まなくなるのは
誰が考えても当然ではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もし、
先生と生徒の
心と
体に
ブレーキが、かからないとすれば、
その時、
先生も生徒も
自動的に動く、
ロボットに
なりつつあるのです。
人間では、なくなりつつあるのです。
「生きる屍」と、なりつつあるのです。
(ドングリおじさん)