どんぐりおじさんの<人間関係論>

教育学を中心に、人間関係論やコミュニケーション論などに関する私案を、いろいろ書いています

教育新聞(第7号)

第7号 2015年12月4日発行 道徳教育と罪の意識(第4回)


これまで、私達は、<不合理な道徳教育が、なぜ、人間を不幸にしてしまうのか>、をラッセル氏の有名な著書「幸福論」を読みながら、考えてきました。


第6号に引き続き、ラッセル氏の考えを聞いてみましょう。
「多くの人々の心中には、合理性を嫌悪する気持がある。そういう場合には、私が今まで述べてきたようなことは、的はずれで重要ではない、と思われるであろう。また、合理性は、もしも充分に働かせたら、より深い情念をすべて殺してしまう、という考え方もある。


このような信念は、人間生活における理性の働きをまったく誤解しているために生じる、と私には思われる。情緒を生み出すことは、理性の仕事ではない。ただし、幸福の障害になるような情緒を防ぐ方法を発見する事は、理性の働きの一部であるかもしれない。憎しみやネタミを最小にする方法を発見する事は、疑いもなく、理性的な心理の働きの一部である。しかし、これらの情念を最小にする際、同時に、理性が非としない情念の力までも同時に弱めてしまうのではないか、と想像するのは誤りである。情熱的な愛、友情、慈悲心、科学や芸術に対する献身などの中には、理性が減らしたいと思うものは、何もないのだから。


理性的な人間は、これらの情念の強さを減らすようなことは、何もしないだろう。なぜなら、これらの感情は、いずれも、良い生活、すなわち、自分と他人の、双方の幸福に寄与する生活の1部になっているからである。これらの情念そのものには、不合理なところは何もない。ところが、非理性的な人々の中には、実につまらない情念しか、感じない人がたくさんいる。なんびとも、自分を理性的にする事で生活がつまらなくなる、などと心配するにはおよばない。それどころか、合理性は主に内的な調和から成り立つものであるから、これを達成した人は、内部の葛藤によって絶えず邪魔されている人よりも、世界の見方においても、外的な目的を達成するためのエネルギーの使い方においても、いっそう自由である。自分の殻に閉じこもるほどつまらないことはないし、注意力とエネルギーを外に向けるほど、気分を引き立て、生き生きさせてくれるものはない。


私達の伝統的な道徳は、不当に自己中心的であった。そして、罪の観念(罪悪感)は、こうした、愚かにも、自己に注意を集中することの一部である。このような欠陥のある道徳によって、かもし出された主観的な気分(罪悪感)を味わったことのない人々には、理性は不必要かもしれない。しかし、一度この病気にかかった人々にとっては、きちんと治療するためには理性が必要である。もしかすると、この病気は、精神的発達において必要な段階なのかもしれない。理性の助けによってこの病気を乗り越えた人は、この病気も治癒も経験しなかった人よりも、一段と高い精神的レベルに達したのだ、と私は考えたい。現代では、一般的になっている理性ぎらいは、大部分、理性の働きが、十分に、かつ、根本的に理解されていないところに原因がある。


内部が分裂している人間は、興奮と気晴らしとを捜し求める。彼は、強烈な情熱を愛するが、それには、しっかりした理由があるわけではなく、さしあたり、その情熱がわれを忘れさせてくれるので、思考という、つらい仕事をしなくてもすむからである。彼にとっては、どんな情熱も一種の陶酔となる。そして、根本的な幸福などは思いもよらないので、彼には、苦痛からの救いは、すべて、陶酔の形でしか可能ではないように思われるのだ。しかし、これは、根の深い病気の徴候である。このような病気のない所では、自分の能力を最も完全に発揮することが出来て、その時、最大の幸福が訪れる。最も強烈な喜びを味わえるのは、精神が最も活発で、物忘れの最も少ない瞬間である。これこそ、まさに、幸福の最上の試金石の一つである。どんな種類であれ、陶酔を必要とするような幸福は、インチキで不満足なものだ。本当に満足できる幸福は、私達の諸能力が最大限に行使され、私達の生きている世界を最大限に理解させてくれるものである。」。=以上=


ラッセル氏の著書「幸福論」(岩波文庫)、第七章「罪の意識」(抜粋)は、以上で終わりです。皆さん、これまでに、ここに掲載した彼の考えをお読みになって、どのように感じられたでしょうか? 彼が主張している見解の要点を、私なりにまとめてみました。
<要点>      
(1)私達は、子供のころ、おとな(主に、母親)から、<不合理な道徳観>を心に植えつけられた。
(2)この道徳観は、「嘘をついては、いけない」、「喧嘩をしては、いけない」、「悪い言葉を使っては、いけない」、「性器にさわっては、いけない」などなど、沢山ある。
(3)この道徳観は、おとなになった今でも、私の心にあり、私の行動の判断基準(モノサシ)となり、<私は、この道徳観を守ろう>、<他人にも、守らせよう>と、私を強制し、縛っている。
(4)しかし、これらの道徳観を、100パーセント守ることの出来る人間は、一人もいない。もともと
出来ない相談なのだ。
(5)これらの道徳観に、違反した<その時>、あなたは、罪の意識(罪悪感)を感じる。
(6)罪悪感は、実に不愉快な、イヤな気分である。
(7)罪悪感は、人間の生活を暗くし、必ず、人間を不幸にする。
(8)だから、あなたが幸福になるためには、<不合理な道徳観>を、取り除かねばならない。
(9)その道徳観を、取り除くためには、どうするか? 方法は、あるのか?
(10)その方法は、あるのだ!


(イ)まず、あなたの心に、どのような道徳観が、働いているかを発見しなければならない。
(ロ)では、どのようにすれば、その道徳観を、発見することが、出来るのか?
 それは、あなたの心に、漠然とした罪悪感が起こった時に、<何か、自分は、悪いことをしたのだろうか>、と<自分に訪ねること>が、必要だ!
(ハ)その結果、例えば、<「今、嘘をついたこと」(これが、その時、作用した道徳観である)が、今、あなたの心に起こった罪悪感の原因らしい>という事を、発見したなら、
(ニ)次に、<理性の力(誰でも、理性を持っている)>で、今、あなたが発見した、<嘘をつくことは、悪いことだ>という、この道徳観を、よく考えてみなさい。<嘘をつくことは、なぜ、悪いことなのか>と、よく考えなさい。<考える>ということは、大きなエネルギーを必要とするので、厄介ではある。しかし、自分の幸福のために、生き生きとした生活をするために、努力して、考えて欲しい!!    
(ホ)よくよく考えた結果、<嘘をつくことは、いつでも、悪いことだ、とは言えない>ということが、ハッキリとわかったとき、あなたは、この道徳観を取り除くことが出来たのだ。
(へ)そうすれば、あなたの心は、この道徳観から生じていた罪悪感から、開放され、
(ト)前よりも、生き生きとした楽しい生活に向って、成長して行くことが出来るのだ!

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