どんぐりおじさんの<人間関係論>

教育学を中心に、人間関係論やコミュニケーション論などに関する私案を、いろいろ書いています

教育新聞(第22号)

 生徒の成長に役立つ教育は、教師と生徒の、暖かい心[気持]の交流によって
実現するでしょう。。


    <人格養成のための<新・教育学>
        =対話による、生徒中心の教育


生徒の人格養成の実践  
  =その具体的方法= 


生徒から学ぶ(1)
(Ⅰ)はじめに                
  生徒から学ぶ! この言葉を読んだ瞬間、皆さんは、どう感じられましたか?
  「何のことだ? 教師が、生徒から学ぶ? おかしいでは、ないか?」と感じられた方が多いのではないでしょうか? なぜなら、一般には「教育は、教師が持っている有益なものを、生徒の成長のために、教師が、生徒に教えることである」と考えられていると、私は思からです。この一般的な教育観は、知識については妥当かもしれません。しかし、人格については、妥当ではないように、私には見えるのです。
子供達を、あるがままに観察すると、子供達は、おとなよりも、はるかにすぐれた人
格特性を持っています。もし、これが事実だとすれば(私には、確実な事実に見えるの
ですが)、私達が、いつの間にか失ってしまった、人間としての、大切な人格特性を、再
び、快復するために、子供達が持っている、いくつかの、すぐれた人格特性から、多く
の事を学ぶことが出来るのです。
 それでは、生徒達が持っている、いくつかの、すぐれた人格特性とは、どのようなものでしょうか? 今回は、この辺の事を、これから研究したいと思います。ご一緒に考えて頂きたいと思います。


(Ⅱ)生徒が持っている、すぐれた人格特性とは?
 (1)主体性。自主性。
      広辞苑によれば
 「主体性とは、主体的であること。また、そういう態度や性格であること。」とあります。これでは、同意語、反復で、私には、何のことか意味不明です。
そこで、「主体的」を引いてみると「主体的とは、ある活動や思考などをなす時、そ
の主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。」とあります。
これまた、わかったようで、よくわからない説明だと思われませんか?


ある人が、私に「自主」について、次のように教えてくれたことがあります。
「自」とは、「自分自身」のこと。「主」とは、「主人」のことだ。何をするにも、「自分、感じ」、「自分、考え」、「自分、判断し」、「自分、実行する」、その ような心構え、態度、性質のことだ。この「自分」の「」という所が、重要なのだ。


私は、この説明で、主体性、自主性の意味を理解することが出来ました。私は、「自主的」に行動することが、自分自身の満足のため、何より重要だと思うので「自分自身、感じ」、「自分自身考え」、「自分自身、判断し」、「自分自身行動すること」を心がけているのですが、1日に、何回、これらが、実行出来ているのでしょうか? 実に、難しいのです。 ボーとしていると、その瞬間、たちまち、「自分」が、なくなってしまうのですから。自己完成を成し遂げて、悟りを開いたといわれるお釈迦様は、本当に、瞬間、瞬間、24時間、毎日毎日、「自主的」に存在することが出来ていたのでしょうか? その証拠はあるのでしょうか? 私は、信じることが出来ないのです。


 子供達は、私達よりも、ずっとすぐれた「自主性」を持ち、「自主的」に動いています。だから、私達より、はるかに生き生きしているのです!


(2)感性。感受性。感受力
  六根清浄とは
  *六根(仏教用語)
     六根とは、次の六つの感覚を言う。

       眼根(視覚)。 耳根(聴覚)。
       鼻根(嗅覚)。 舌根(味覚)。
       身根(触覚)。 意根[意識]。
  *概要 
     六根は人間の認識の根幹である。六根が、我欲などの執着にまみれていては、正しい道(八正道)を往くことは、かなわない。そこで、執着を断ち、心を清らか状態に
することを六根清浄と言う。そのため不浄なものを、見ない、聴かない、嗅がない、
味わわない、触れない、感じない、ために、俗世との接触を断つことが行われた(山
ごもりなご)。かつては、修験者が、山を登る時に、「ロッコン、ショウジョウ!」と
声を出しながら修行のため山を登ったとか。落語の「大山詣り」などにもその様子が描写
されている。
 子供は、おとなが及ばない、すぐれた六根を持っています。実に良く、「聴いている」、「見ている」、「味がわかる」、「人を見る眼がある」。六根が、敏感に、フルに、働いています。(以上)

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