教育新聞(第18号)
人格養成のための<新・教育学>
=対話による、生徒中心の教育=
(1)<対話>と<対話の場>
学校教育は、大部分が、<対話の場>の中で、<対話>によって実行されています。<対話の場>には<一人の先生と一人の生徒>が、向かい合っています。お相撲の土俵のようなものです。知識教育も人格養成も、<対話の場>で<対話>によって実行されています。人格養成は、<対話の場>があれば、教科授業の教室でも、廊下でも、校庭でも、
どこでも<対話>によって実現することが出来ます。
(2)<発言>に含まれている2要素
<対話>は、<対話の場>で一人の先生と、一人の生徒の間で行われます。先生が<発言>し、生徒がそれを聴く。次に、生徒が<発言>し、先生がそれを聴く。この繰り返しです。
さて、すべての人間(幼児,児童、おとな)が話す、すべての<発言>には、次の二つの要素が、必ず含まれています。(1)と(2)の比率(強弱)の差は、ありますが。
(1)事柄 (2)気持
*事柄とは、<発言>の内容です。
*気持とは、瞬間、瞬間に、心に湧き上がってくる感情です。実に多くの複雑な感情が、
つぎつぎと、泉のように湧き上がり、そして消えて行きます。喜び、悲しみ、怒り、
憎しみ、願望、・・・・・。アッ!という間に、現われ、アッ!という間に、消えてい
きます。このような得体の知れないもの、すべてを、ここでは、<気持>と呼ぶことに します。
例えば、つぎのA君の<発言>を考えてみましょう。
A君の発言「雨が降ってきたけど、僕は傘を持ってないなー」
この<発言>には、どのような事柄と気持が含まれているでしょうか?
(1)事柄
「雨が降ってきた」という事実。「自分が傘を持っていない」という事実。
(2)気持
「困ったなー」という感情、「傘が欲しいなー」という願望。
(3)<聴き手>に要求されること。
<聴き手>は、この二つの要素(事柄と気持)を、出来るだけ正確に感じ取る必要が あります。
(イ)<聴き手>)が、先生(先生に限らず、すべてのおとな)の場合。
事柄は、多くの場合、聴き取ることが出来るように見えます。しかしどれだ け正確に聴き取っているかとなると、不正確にしか聴き取っていないようです。
気持の方は、どうでしょうか? ほとんどの場合、多くのおとなは、<発言> に含まれている気持を感じ取ることが、ニガテのようです。「竹輪耳」です。
(ロ)<聴き手>が、生徒の場合。
事柄は、自分が、意味を理解しているコトバだけしか、理解することが出来 ません。これは、当然のことで、異常ではありません。自分が、意味を理解して いるコトバが耳に入ってきた時には、実に敏感に、正確に、聴き取っています。
気持の方は、どうでしょうか? ほとんどの場合、実に敏感に、実に正確に、 感じ取っています。生徒の方が、先生より、はるかに感受性(感受力)が強いよ うに、私には見えるのですが、いかがでしょうか? 私は、生徒のこの能力(事 柄と気持の両方を感じ取る能力)に、いつも驚ろかされています。
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