どんぐりおじさんの<人間関係論>

教育学を中心に、人間関係論やコミュニケーション論などに関する私案を、いろいろ書いています

教育新聞(第6号)

第6号 2015年11月20日、発行 道徳教育と罪の意識(第3回
ラッセル氏が、私達に、何とかして伝えようと、努力していることは、<不合理な、誤った道徳教育が、人間(子供も、おとなも)の健全な発達にとって、有害である>ということだ、と私は強く感じます。
ラッセル氏の、このような見解は、私自身の、経験と観察に照らしてみても、全面的に賛同できるものです。
ラッセル氏が、これまでに述べていることを要約すると、次のようになると思います。
  (1)私達は、子供時代に、知らぬ間に、大人たちから不合理な道徳教育を受けた。
  (2)そのため、私達の心には、多くの不合理な道徳が、植えつけられています。その結果、罪悪感が生まれ、その罪悪感が、私達の生活を不愉快にしている。
  (3)この罪悪感から脱却し、生き生きした生活へと到達する方法は、不合理な道徳を、理性の力で、よくよく点検し、不合理な道徳を捨て去ることだ。たとえば、彼が「嘘をつくことは、いつでも、悪いことだ、とは言えない!」という事実に気づけば、この道徳観に振り回されることは、なくなるのだ!


ラッセル氏は、さらに、次のように語り続けています。
 「世界の正常な生活において、正常な役割を果たすべき人たちは、いまこそ、この病的な
ナンセンスに対して、反逆することを学んでもよいころだ!
 しかし、その反逆に成功して、個人に幸福をもたらし、一貫して一つの基準で暮らし、二つの基準の間で、よろめくことがないようにするためには、理性の命じるところを、よく考え、深く感じること、が重要である。たいていの人は、子供時代の、いくつかの迷信(不合理な道徳観)を、表面的に投げ捨ててしまうと、万事が終わったかのように考える。彼らは、これらとは別の迷信(不合理な道徳観)が、なおも意識下に潜んでいることに、気づいていない。一度、合理的な結論に達した時には、よくようその事を心に刻み込み、新しく獲得した確信と矛盾するような信念が、まだ、生き残っていないかどうか、さらに、心の中を探して見なければならない。
 また、罪の意識が強くなった時には(時々は、そうなるはずであるが)
それを、啓示とか、高いものへの誘いだ、というふうに考えないで、病気
であり、弱さである、と考えなければならない。もちろん、その罪の意識
が、合理的な道徳が、非難するような行為によって引き起こされたもので
ある場合は、話は別である。私は、人間には道徳が不要だ、と言っている
のではない。人間には迷信が不要だ、と言っているにすぎない。両者は、
非常に異なったことである。
 しかし、ある人が、自分の、合理的な規範に違反した時に生ずる罪の意識でさえ、はたして、その罪の意識が、より良い生き方に到達する最善方法であるかどうか、疑問である。罪の意識には、何か卑屈なところ、何か自尊心に欠けたところがある。誰一人として、自尊心を失うことで、得をした人はいない。理性的な人間は、自分自身の望ましくない行為を、他の人々の望ましくない行為を見るように見るだろう。つまり、それは、ある状況によって引き起こされた行為であって、それを回避するには、それが望ましくない行為であることを、もっと十分に理解するなり、もし可能なら、それを引き起こした状況を回避するなりすればよい、というように考えるだろう。

実は、すべての罪の意識は、良い人生の源泉になるどころか、まったくその逆である。すべての罪の意識は、人を不幸にし、劣等感を抱かせる。自分が不幸なので、他人に過大な要求をしがちであり、そのために、人間関係において、幸福をエンジョイすることが、出来なくなる。劣等感があるので、自分よりもすぐれていると思われる人たちに対して、恨みを持つようになる。彼は、他人を賞賛することがむずかしく、ねたみやすいのを、感じるだろう。彼は、他人から、感じの悪い人だ、思われる人間になり、ますます孤独になっていく。彼が、他人に対して、心の広い、おおらかな態度をとれば、他人を幸福にし、自分を幸福にし、誰からも好かれる人間になるだろう。彼のこのような態度は、彼の幸福の源泉となるだろう。
 しかし、そのような態度は、罪の意識に、つきまとわれている人には、まず不可能である。そのような態度は、落ち着きがあり、自分を信頼することが出来る人のみが、可能なのだ。そのような態度は、精神統一を要求するからである。<精神統一>という言葉で、私が言おうとしているのは、人間の性格の、意識、意識下、無意識の各層が、調和を保ちながら、協力し合っていること、絶えず相争っていない、ということである。こうした調和を生み出すことは、たいていの場合、賢明な教育によってのみ、可能なのである。しかし、教育が賢明でなかった場合は、もっと、むずかしいプロセスとなる。それは、精神分析医たちが試みているプロセスである。しかし、非常に多くの場合、患者自身(強い罪悪感で悩み、苦しんでいる人自身)が、この悩みを解決できるのであって、もっと極端な場合に限り、専門医の助けが必要になる、と私は信じている。「私には、そんな心理学的な仕事をする暇はない。私の生活は、仕事で一杯で、忙しいんだ。だから、無意識にうまくやらせておくしかない」などと言ってはいけない。内部が分裂している性格は、彼の幸福を妨害するだけでなく、能率をも悪くするのだ。自分の性格の不統一を、改善するためには、いくらかの時間が費やされるが、その時間は、非常に、有益に使われた時間である。
私は、人間は、たとえば、一日に一時間を、自省のために使うべきだ、などと言っているのではない。私は、このような方法は、決して最善の方法ではない、と思う。なぜなら、自己没頭を増大させるからだ。自己没頭は、一種の病気である。なぜなら、調和のとれた性格は、関心が、自分の内部に向うのではなく、外部に向うものだからだ。
私が、よくよく注意してほしいことは、<自分自身が、理性的に信じることは、断固とした決意を、持っていること>、<それに反する、不合理な信念を、決して、まかり通らせたり、しないこと>、<不合理な信念に、決して、支配されないこと>である。これは、人が小児的になりたい、という気持に駆られるような時に、自分自身を理性的に説得できるかどうか、の問題である。しかし、その説得が、十分に力を持っていれば、短時間ですむかもしれない。だから、それに必要な時間などは、問題にしなくて良いし、重要な時間なのだ。」。

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