心、と、心臓。
*この記事は、先生方だけでなく、一般の皆さんにも、お読みいただきたいと、私は願っています。
その場合は、<先生>を<おとな>、<生徒>を<子ども>と変換して下さい。
内容自体は、変換の必要は、まったくありません。
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心、と、心臓。
心が、感じ取るものは、何でしょうか?
それは、次の二つです。
(1)<気持ち(感情)>と
(2)<願い>です。
(1)は、瞬間、瞬間、心に湧き上っては、消えるもの、すべてです。
2度と、同じものは現れません。
<喜、怒、哀、楽、憎しみ、恨み、イヤだ、好き だ、・・>
(2)は、「今、私は、・・・したい」、「今、私は、・・・した くない」です。
(1)と(2)は、質が違います。
(1)は、思考が働いていません。
たとえば「嬉しい」と言う感情は、思考とは無関係です。
考えて喜ぶわけではありません。
理屈なしに、嬉しいのです。
(2)は、思考が働いています。
たとえば「今、私は、ビールを飲みたい」と思う時は、「何を、飲みたいかな? 日 本酒かな? 焼酎かな?」と考えて、判断しているのです。
(1)と(2)の違いは、経験してみれば、誰でも解ることです。
ここで重要なことは、何でしょう?
心も、心臓も、生涯、休み無く、働いていると言うことです。
また、心が、感じ取る<気持ち(感情)>と願い>は、自分が、ボヤッとしていると、意識できないと言うことです。
別の言い方をするならば、先生が 、自分の<気持ち(感情)>と<願い> を意識するには、たえず、自分が、自分の心を見つめていることが必要だ、と言うことです。
これは、誰にとっても困難な仕事です。
自分が、自分の心を見つめる能力である集中力を、少しずつ高める訓練が、生涯、求められるのです。
さて、以上述べたことは、教育と、どんな関係が、あるのでしょうか?
先生が、瞬間、瞬間の、自分の<気持ち(感情)>と<願い> を意識していることは、教育と、関係があるのでしょうか?
関係がある、どころではありません。
先生が、瞬間、瞬間の、自分の<気持ち(感情)>と<願い> を意識していることが、 教師と生徒との、対話、コミュニケーションの必須条件なのです。
なぜなら、教育は、主に先生と生徒の、健全な対話、コミュニケーションによって、実行されるからです。
先生が、生徒に対して発する発言は、<先生が、瞬間、瞬間の、自分の<気持ち(感情)>と<願い> なのです。
もしも、先生が、自分の、瞬間、瞬間の、自分の<気持ち(感情)と<願い> を意識していないならば、先生は、何も発言できないのです。
発言するデーターが、ないのです。
生徒との対話、コミュニケーションが、出来ないのです。
これでは、教育は、不十分なものになってしまうのは明らかです。(おわり)
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どんぐりおじさん。
*コメントを心待ちにしています。