教育新聞(第32号)
生徒(子供)が、何でも、話せる先生(親)!
ここにこそ、自由があり、
ここでこそ、生徒(子供)が成長するに違いないのです!
人格養成のための<新・教育学>
=対話による、生徒中心の教育=
先生に求められる能力と、その考察(7)
(4)思考力、判断力、決断力を強化しよう!
(4-1)その方法は?
(4-2)トレーニング
(イ)<ウソをつくのは、悪いことだ>という考え。
(ここまでが、前号です。次の行から、今回号です。念のため)。
(ロ)<学校教育の目的は、生徒に、良い事、悪い事、を教えることで ある>という考えに、ついて。
*E先生
「この考えは、昔も今も、家庭や学校に広まっていて
重要な教育方針になっていると思うので、
これを踏襲しなければならない」。
*F先生
「この考えは、道徳教育の考え方です。
道徳教育が、人間をどれだけ不幸にしてきたかは、
歴史が証明していると思います。
「愛国心を持った生徒を育てよう」と生徒に強制した戦前の教育が、
どんな悲劇を生んだでしょうか!!」。
*G先生
「<良い行い>とは、どのような行為でしょうか?
<悪い行為>とは、何でしょうか?
複雑な生活の中で行われる人間の行動を、
このように<二者択一>のモノサシで、判断することは、
出来ないと私は考えます」。
ケースバイケースで、
具体的に、
「今、自分が、どうしたいか」、
「今、自分が、どうするか」を
自主決定しながら行動することが出来る生徒を育てることが、
教育の目的であり、
私達、教師の役目だ、と私は考えます。
私は、このような主体性のある生徒を育てたいので、
私自身が、生徒の行動を、
「それは、良いことだ」とほめたり、
「それは、悪いことだ」と咎めたりしないように
心がけています」。
*H先生
「この考えで、先生が生徒に接すると
確実に「良い子」,「悪い子」が出来上がります。
私は、かつて「良い子」を、演じていました!!
学校では、いつも先生からほめられました。
家では、親から「お前は親孝行息子だ」とほめられました。
実に、私は、いい気分でした。
いつも、先生や親の顔色を伺いながら、ほめられそうなことばか り、やっていました。
自主性が、まったく、失われていたです。
自分自身として、生きていなかったのです。
「生きる屍」でした。
「自分が、やりたいことをやろう」などとは、
思いもしなかったのですから。
私が、24歳の時、私が尊敬する先生のお陰で、
自分が「生きる屍」であることに、気づき、愕然としました。
遅ればせながら、やっと、この時から、自分の足で立ち始めたのです。
今、私は教師として、
かつての私のような「良い子」を、
絶対に作るまいと努力しながら、生徒と付き合っています」。
*今、これをお読みのあなたは、どう考えますか?
(ハ)<学校教育の目的は、教師が持っている考えや知識を、生徒に教え込むことであ る>と言う考えについて。
*J先生
「昔から、この考えで学校教育は、行われてきました。今もそうです。
普遍的、伝統的な教育理念ですから、絶対正しいのです。
これを踏襲すべきなのです。
再考の余地は、まったくありません」。
*K先生
「学校教育の目的は、
すべての生徒(人間)が持っている先天的、潜在的能力を発揮させる ことだと、私は考えます。
簡潔に言えば、学校教育の目的は、
<生徒の人格養成>です。
私達の知識や価値観を教えることではありません。
<生徒の人格養成(人間形成)>のためには、
<対話の場>(一人の教師と一人の生徒が、向かい合って話し合う場)の 中に<自由な雰囲気>が必要です。
教師の役割は、
この<自由な雰囲気>を、<対話の場>の中に作り出すことだ、
と私は考えます。
<対話の場>は、
先生が
教科授業の中にも、
グランドにも、
廊下にも、
どこにでも、
作ることが出来ます。
<生徒の人格養成(人間形成)>のために、
特別な授業を設ける必要は、まったくないのです。
先生が、<対話の場>を作ることが出来れば、それで良いのです。
*L先生、あなたは、どのようにお考えでしょうか?
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