教育新聞(第29号)
生徒は、<常識>を理解できません。
人格養成のための<新・教育学>
=対話による、生徒中心の教育=
先生に求められる能力と、その考察(4)
(2)第三に求められる能力は、<思考力>。(その1)
(2-4)現在の<自分の性格>を、改善する。・・(パーソナリティ・チエンジ)
現在の<自分の性格>を、見直し、少しずつ改善していくことは、自分自身 の幸福のために、生涯続けられる、何より大切な事業です。
しかし前にも述べた理由で、教育を職業とする人々には、他の一般の人たち
よりも、<自分の性格の改善>を、特に求められると思います。
しかしこのことで、大きな義務を背負ったように負担に感じないで下さい。 自分を改善したいと願いつつ、マイペースでコツコツと努力する、その態度 こそが、尊いのだ、と私は感じます。
(2-5)考えを進める時に、くれぐれも注意すべきこと。
(1)<道徳>を基準にして、考えないこと。
私達は、今、自分の<価値観(考え)>や<性格>をよく考え、改善しよう としています。
この時、道徳の観点から、
これは、<良いこと(善)>だろうか、 <悪いこと(悪)>だろうか」
と考えると、正確に考えることが出来ないでしょう。
道徳は、<二者択一の考え方>です。
私達は、生まれた時から、物事を、<二者択一の考え方>をする社会の風潮 の中で育って来た(これは、事実です)ので、私達の頭脳が、いつの間にか
<良いか>、<悪いか>と言う、<二者択一の考え方>に犯されてしまった のではないか、と私は考えます。
<二者択一の考え方>とは、言うまでもなく、
<良いか、悪いか>、<白か、黒か>、<右か左か>、
<丁か、半か>の、
どちらかに、答えを決めてしまう考え方です。
答えは、二つの中から、一つが選択されます。
たとえば、
*「ウソをつくのは、悪い」。(「正直が、善いことだ」)
*「ケンカをするのは、悪い」。(「仲良しが、善いことだ」)
*「不倫は、悪い」。(「不倫をしないことが、正しい」)
*「夫婦喧嘩は、よろしくない」。(「夫婦は、仲良しが良い」)
一体、誰が、いつ、こんな愚かな基準を、決めてしまったのでしょうか!!
私には、わかりません!
<ふたつに、ひとつ>という考え方は、
簡単であり、 楽であり、
また、明快な感じがします。
ですから、私達は、最も大切な
<自分が、考える>と言う努力を止め、
<二者択一の考え方>と言う、
安易な選択方式を採用してしまったのでしょうか?
<自分が、考える>とは、
<自分として、「 自分が、満足(納得)できる答え」を
考え出す努力>です。
たとえば、ある人が、こう考えています。
「私は『 ウソを付くのは悪いことだ 』と考える。
私のこの考えは道徳的に考えて、正しいに決まっている。
昔から、そうなっているのだ。
あらためて、私が考えるまでもない。当たりまえの考えだ。」。
結局、この人は、
<自分が、考える>と言う努力は、面倒なので、
<ふたつに、ひとつ>という
<安易な考え方>を、身につけてしまったのではないか、と私は 考えるのですが、いかがでしょうか?
(2)<常識>を基準にして、考えないこと。
<自分の考え>や<自分の性格>が、
<常識に、一致しているか>、
<一致していないか>
と言う観点(この観点も、<二者択一の考え方>です)から、
考えない事。
たとえば
「私は、生徒が、おとなに挨拶をするのは、当たりまえだ、と考える。 この私の考えは、常識だから間違ってはいない。
誰だって、そう考えているではないか!」
というように。
この考え方は、私は、誤りだと考えます。
その理由は、次の通りです。
子供は、<常識>を理解できません。
これは事実です。
<常識>は、おとなが決めた<大人のルール>ですから、子供が理解で きないのは、これこそ、当たりまえです。
<大人のルール>である<常識>を、子供の教育に持ち込み、教え込も うとすることは、歯のない赤ちゃんに、草加センベイを無理やり食べさ せようとするのと同じことです。
これは、無理な相談と言うものです。理不尽です。
しかし、残念なことに、現実の教育現場には、
<大人のルール>が持ち込まれていて、先生も、生徒も、苦労している ように、私には見えるのですが、いかがでしょうか?
しっかり育った子供は、社会に出れば、必ず<常識>を理解し、守ろう
とするものです。必要な時に、挨拶をしない社会人は、めったに見当た りません。
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